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子供が知っていて、わたしが忘れ、老人が思い出したもの。

死です。

金持ちの子供でも貧乏人の子供でも、その状況を受け入れているのなら同じですよね。親の金で遊ぼうが、親の借金を返そうが、どちらも同じことのように思える。この気持ちは贅沢の上で成り立っている。わたしには両親が揃っていて、食べることに困ったことはないし、顔が腫れがあるほど殴られたこともない、彼らの人間性に多少の問題はあっても。そういう贅沢の上で成り立っている。わたしは、わたしが体験した程度の不幸には同情できても、それ以上の不幸、それ以下の不幸にたいしては同情することができなくなってしまう。鈍感になってしまう。目を閉じてセックスしている時みたいな鈍感さ。

わたしのことが好きかと聞くと、わからない、わからないから会うことが止められないと返ってきた。映画か何かで聞いたことのあるような台詞だと思った。どこで耳にしたのか未だに思い出せない。思い出せないから、その言葉が忘れられない。

金を持っても本を読んでも心は貧しい。

悲しみの記憶について。人生で最初の「悲しい」の記憶を探していて思い出しました。

祖母に連れられ、いとこのバレエの発表会へ出かけた時のこと。発表会へと向かう途中、わたしたちは花屋に寄った。いとこに渡すための花束を買うために。祖母はわたしに「あなたの分も買ってあげるわ」と言った。それはわたしからいとこへ渡すための花束を指していたんだけど、わたしはすっかり「わたしへの花束」だと思い込んでしまった。そんなはずなくておかしな話なんだけど。黄色の小さなバラの花束。

発表会を終えたいとこを前に、祖母から「ほら、渡してあげて」と言われた時の、あの気持ち。少しの疑いもなく自分のものだと思っていて、ずっと大事に持っていて、この手から離れることなんてないと思っていたものを、あっけなく取りあげられた瞬間のあの気持ち。なんてことないあの気持ち。

自分の知っている愛だけが愛であれば良かったのに。

たかが世界の終わりを観てきた。いわゆる会話劇で、最初はあまり好みじゃないかなと思ったんですけど、最後には前のめり気味で。

始まってしばらくは、自分の知っている(持っている)愛だけが愛だと思っている人たちの映画なのかなと思っていた。だけどタイトルです。自分の知っている愛だけが愛であれば、こんなに簡単なことはないですよね。まあ他人同士であれば、それも出来てしまうかもしれない。違うと思えば切り捨てても良いし、それでもそばにいたいと思えばすり合わせでも何でも試みれば良い、他人同士なんだから少しは頑張らないと、という頭も持てる。

家族は本当に難しい。すり合わせることすら許されない、この関係性に愛はあって当然のもの、その愛が自分に合うとか合わないだとか、そんな話じゃない、という道徳からの圧力、社会からの圧力、その認識を持たない者は悪であるくらいの酷い圧力。

そして、そこから逃れた全く別の場所で、何より自分自身が感じている。この思いは断ち切れないと。血は万能じゃない、分かっていても期待してしまう、わたしたちは分かり合えるはずだ、家族なんだから、そう血が騒ぐ。

世界の終わりで母親は、理解できなくても愛していると言った。兄は理解できないから美しいのだと。良い映画だった。自分の知っている愛だけが愛であれば良かったのにね。

Listen baby Your wish is my command

タイトルはBreakbotのBaby I'm Yoursからです。

 

友人がいる、その友人に関して思うことがある。こんな感じ。

彼の性質と、人間としての欲求、願いの相性が死ぬほど悪い。

彼はおそらく、一人でいることの気楽さを気に入っているし、必要以上に他人と深く関わったり、慣れあったりすることを好まない。好まないというより、苦手なんだろう。それが彼の性質。

 

彼は人間に育てられた。彼の両親は当然人間だ、自分たちの子供には人間らしい心、良心、豊かな心なんかを持って欲しいと願ったことだろう(気が狂っていなければ)そして出来る限りそうなるよう彼を育てる。どこの親も「良いと思うもの」をとにかく子供に持たせようとする。背負わせ、腰に巻きつけ、靴の中に隠させる。そして無言で言う「絶対に捨ててはいけないよ」と。わたしたちは捨て方を知らない、人間であろうとする限り、それを知ろうとしない、どんなにつらくても。

 

両親は子供を愛していると思っている、愛であやされて人間になっていく、人間は愛を欲する、つらいから、人間であろうとするから、愛くらいもらわなきゃやってらんない、割にあわないと思うから。わたしたちは捨て方を知らない。

 

彼は良心を持たされたせいで愛を求める羽目に。これが人間としての欲求、願いですが、彼の性質には愛が合っていない。なのにジャンキーみたい求める。得られないことは問題じゃない、性質に合わないことをさせられること自体がもう、クソほど、最低なんだから。

詩的であれば韻は踏まなくてもいいんだ。

ムーンライズ・キングダムに出てくるセリフだったと思います、たしか。

 

ピアスをあけるシーンがあるんだけど、あれはめちゃくちゃにエロかった。間に合わせで、乱暴で、ただそこに爆発的な好奇心があって、何の根拠もない少しの信頼のようなものがあって。子供がきちんと、セックスに代わるセックスをしていたと思う。あのシーンはセックスの代替品、比喩なんて安いもんじゃないとは思うけど。セックスシーンを見せられるよりずっと良かった。

 

してもいいセックスのどこにエロがあるんですか、子供のセックスがセンセーショナルなのは、気絶しそうな「してはいけない」がそこにあるからですかね。子供なのに、の後ろめたさは良心だろうか。別にたいしたことじゃない、不倫も同じ、周りが思うほど本人たちは楽しめていない。っていうのがわたしの偏見です。

 

宗教を持たない家に生まれた。知を愛するだけで良いのならわたしにも出来るかもしれない。だけど、良心に神様が組み込まれていないわたしが、心底それに夢中になることは難しいだろう。だって知を愛することは、神様が人間に与えた自由だと思いません?悲しいけど。

 

来世ではわたしを是非、哲学者に。神様。

 

 

あれって最後は戻ったんじゃないだろうか、なんとなく。

というのがトム・アット・ザ・ファームの感想です。

ずるずると先延ばしにしていた世界の終わりを来週こそ。グザヴィエ・ドランの姿が見えない作品の方が、グザヴィエ・ドランの映画という感じがしますね。

画家が描く自画像にはなんだか陰鬱な雰囲気がある。どんな絵でも自画像と比べれば爽やかなものだ。そもそも自分を描くだなんて苦行、正気でいられるんですかね。わたしなら、まああれです。

人間の一員であるわたしの本質は醜い。この人生では桶に水をくんで、醜い本質を懸命に洗い続ける、もちろんよく分かっている、これは綺麗にはならないし、これが綺麗になれば、代わりに水が汚れる。ってね。頭が弱いくらいじゃ死ねない、死ぬまで生き続ける、この前の人生でも、この後の人生でもそうなのかもしれない、あればだけど。