自分の知っている愛だけが愛であれば良かったのに。

たかが世界の終わりを観てきた。いわゆる会話劇で、最初はあまり好みじゃないかなと思ったんですけど、最後には前のめり気味で。

始まってしばらくは、自分の知っている(持っている)愛だけが愛だと思っている人たちの映画なのかなと思っていた。だけどタイトルです。自分の知っている愛だけが愛であれば、こんなに簡単なことはないですよね。まあ他人同士であれば、それも出来てしまうかもしれない。違うと思えば切り捨てても良いし、それでもそばにいたいと思えばすり合わせでも何でも試みれば良い、他人同士なんだから少しは頑張らないと、という頭も持てる。

家族は本当に難しい。すり合わせることすら許されない、この関係性に愛はあって当然のもの、その愛が自分に合うとか合わないだとか、そんな話じゃない、という道徳からの圧力、社会からの圧力、その認識を持たない者は悪であるくらいの酷い圧力。

そして、そこから逃れた全く別の場所で、何より自分自身が感じている。この思いは断ち切れないと。血は万能じゃない、分かっていても期待してしまう、わたしたちは分かり合えるはずだ、家族なんだから、そう血が騒ぐ。

世界の終わりで母親は、理解できなくても愛していると言った。兄は理解できないから美しいのだと。良い映画だった。自分の知っている愛だけが愛であれば良かったのにね。

あれって最後は戻ったんじゃないだろうか、なんとなく。

というのがトム・アット・ザ・ファームの感想です。

ずるずると先延ばしにしていた世界の終わりを来週こそ。グザヴィエ・ドランの姿が見えない作品の方が、グザヴィエ・ドランの映画という感じがしますね。

画家が描く自画像にはなんだか陰鬱な雰囲気がある。どんな絵でも自画像と比べれば爽やかなものだ。そもそも自分を描くだなんて苦行、正気でいられるんですかね。わたしなら、まああれです。

人間の一員であるわたしの本質は醜い。この人生では桶に水をくんで、醜い本質を懸命に洗い続ける、もちろんよく分かっている、これは綺麗にはならないし、これが綺麗になれば、代わりに水が汚れる。ってね。頭が弱いくらいじゃ死ねない、死ぬまで生き続ける、この前の人生でも、この後の人生でもそうなのかもしれない、あればだけど。